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2. 結婚生活の学び

さて、 私に一番大きな影響を与えたのは、そのあと出会った夫との結婚生活でした。

今では鍛えられた20年と呼んでいます。

(※ところで結構この先長いですよ。私も身を切ってお話しするので誰にでも話したいわけではありません。喜々として綴ったわけでもありませんし。辛辣な言葉は具体的に残しませんでしたが、偽りはありません)。

他界しているので結論からいうと、夫は双極性感情障害のⅠ型でした。

異常にハイ状態になる躁(そう)の時期と、常に死が隣り合わせのような鬱(うつ)の時期が交互にやってくる病気です(Ⅱ型はそれほど激しくありません)。

同じ病名でも、その人がもともと持っているパーソナリティによって出方は違います。

しかも躁(そう)と鬱(うつ)では別人になるのです。

躁(そう)のときの例を挙げるとこんな感じです。

◆地域政治にクレーム
監査請求を起こし地元の議員から知事、省庁まで乗り込む(問題点を見つけて声を挙げるところは良いのですが、やり方が極端で強引なことが多かったのです)。

◆結婚から2ヶ月で地方から都内に引っ越し、その2ヶ月後にマンションを購入。その後の鬱(うつ)期で、このローンに苦しみます。

◆選挙に出馬
元弁論部なので話すのは得意ですが落選しました。

都知事に候補しようとしたこともあり、「供託金を出す人を得た」とまで言っていましたが、何とか候補せずに済みました。

ちなみに供託金とは、立候補する人がおふざけでなくある程度覚悟があるところを示すために、届け出とともに納めるお金のことです。立候補補者の権利を抑制している、と批判もあるようですが、私にとっては夫の参入障壁となったことで、その意義が発揮されてありがたかったです。

◆依存的に買い物をする
カードを使い、仕事に、タクシー(例えば1日4万円以上)遊興費、欲しいものはネット通販で、際限がありませんでした。

家電も結構購入していたので、周りからは「良いご主人」と言われました。

一方で電気の消し忘れなど、些細なことに過剰に子どもを叱りつけ、家計は厳しく締め付けました。

莫大な借金を「財産のうち」と豪語し、その一方で帳消しにするために一発逆転思考が強く、思った就職ができないストレスが常にありました。

◆サラリーマンが続かない
就職先でも、躁(そう)状態になると尊大になり会社を辞める、ということを繰り返していました。

一発逆転思考が強かったので、サイドビジネスを始め、そのたびに、仲間にいわれるがまま数百万円を渡し、成果も出ず、回収もできずに終わる、ということも繰り返しました。

◆寝ないで過ごす
3日寝なくても平気で仕事でもそれなりに成果を出し、ますます万能感と優越感に浸り、高揚しました。

元弁論部が多弁になると大変なのです。

夜通し言い分を聞く日が何度もありました。

私も子育てと勤めがある身です。家事も当然です。今ならワンオペという言葉で表せます。同じ部屋なので寝た振りをしていても一晩中煌々と電気が付きっぱなしで、TVやBGMが響くのは苦痛でした。

◆自分以外の人間は無能に見えるため、言葉使いが荒く過激になり、人を傷つけ敵をつくる。とくに子どもにとっては毒親で心に傷を残しました。

(外でのトラブルでは「訴えてやる」が多く、裁判も3つ残して亡くなりました。ひとつは被告)。

尊大になって手が付けられず、言葉が通じませんでした。

その一方で、しばらくすると揺り戻しのように鬱(うつ)の時期がやってきます。

鬱(うつ)期になると、
■自殺念慮が絶えず、未遂もあり
■(長いときで)3年以上不労が続く
■1日20時間以上寝る。部屋から40日以上でない生活。
■家族を不憫に思い、尊重する
と、まるで別人です。

夫が3年働かないって、かなりの金額が入ってこない!ということです。

まだ2人の子どもも小さく、もう、家計の立て直しなんて無理です。

節約できる金額では一般的な(いえ、最小でも)生活費に追い付くこともできません。

私の働きのほかに、孫かわいさで舅からの援助もありましたが、送金先が夫の口座のため、それを家計に入れずに夫が全部使ってしまう事件も数回ありました。

援助があったことは幸運でしたが、別れて生きるという別の選択肢を封じられたようで、当時は幸運ととらえていいのか複雑な思いでした。

躁(そう)のとき→収入があるが散財し、精神的・金銭的・心理的暴力で私がもたない。
鬱(うつ)のとき→詫びて私たちを尊重してくれるが収入がない。
の繰り返しです。

結婚したくらいなので夫には良いところもあったのですが、躁(そう)でも鬱(うつ)でもないフラットな時期はわずかでした。

フラットな時期が一番良いのですが、躁鬱の人は躁(そう)のとき(スーパーマン状態)が自分のスタンダードだと思うので、それ以外のときつらいのです。

多分私のつらさは自分のパートナーが信用できないところだったでしょうか。

良いときも悪いときもどうせまた時期が来れば変わる、病人でさえなければどんなに良かったか、という。

夫本人が、病気という本質に無自覚なのと、周囲が問題の存在に理解のない状態に苦しむ「カサンドラ症候群」という言葉があるのを後に知るのですが、私には該当しなかったようです。

最初は私もいちいちあっけにとられていましたが、ようやく「夫は普通ではない」と判断すると、打ちのめされている場合ではない、といろいろ行動しました。

その前に、普通ではない、と割り切るまで、さまざまな考えが通り過ぎていったことをご紹介しましょう。

これまでの例を見ても、奥さん(私)ってどう思って家族を続けていたの?どんな人?って気になりますね。

躁(そう)のとき
・なんで?どうして?
・何様?
・人を傷つける天才
・家族が憎いの?
・ええかっこし!
・周りはみんなあなたのことを信用していない
・この人の妻で恥ずかしい
・どうしたらこんな人ができる?親は私に補償すべき
・人を傷つけた人は報いを受けるべき
・身がもたない、別れたい
・いっそ酒、浮気、暴力の方がわかりやすいのに、病気と散財では子どもは理解できないだろうな

鬱(うつ)のとき
・誰でも病気になりたい人はいないもの、気の毒
・こんなに思いやりがあってやさしい人なのに
・あんなに強気だったことを覚えてないの
・このまま収入がなければもう終わり
・寝ころんだままの父の姿が子どもたちに良いわけない
・自分の育った環境と違い過ぎて情けない などなど

私も未熟な人間として、口汚く、腹黒く、混乱し、常に葛藤していました。

いたって普通に。

常にあったのは
・子どもの将来への大きな不安
・子どもに悪影響を残したくない
・私が悪いの?
・私にできることはあるの?
・別れるべきか否か

今こうして見ると、ずいぶん認知がゆがんでいるものもあります。

さて、こんなにしんどい日常で私はどうやって生きていたのでしょう(笑)。

方々へ相談し暴露する中でよく言われたのが「まったくそんな風に見えませんね」でした。

専門家からも「どうして耐えられたとお思いですか」といった言葉です。

そう言われたくてしていたことではありません。

日頃はいたって普通の奥さん、お母さんで、明るく元気と言われていました。

家の事情は誰にでも話せるわけではありませんが、とくに「恥で隠すべき」といった考えはありませんでした。

ただ、子どもの前では良いお母さんでいたい気持ちは強かったと思います。

これは良くも悪くも、です。

良いお母さんの定義も難しいところですが。

のちにわかるのですが、私は男性性が強いので、相談先では「共感、同情はいいから解決法を教えて」といった姿勢だったように思います。

私が関わった先というのは
・警察
・裁判所
・精神科、心療内科
・ひとり親に関わる役所窓口
・公証役場
・大学
などですが、日頃はちょこちょこと最終目標である円満な家庭、健康な夫になる方法があるのかと調べていました。

ネット環境も今ほど十分でなかったので利用したのは図書館と本屋さんでしたね。

心理学、精神保健を学ぼうと、30代後半で大学に編入もしました(履修した科目を活かして国家資格も取りました。卒業して10年後です。勉強を継続していたわけでもなく思い付きと箔付けです。なんといい加減な動機でしょう)。

夫と一緒にならなければ、一生関わりなく過ごしていた分野だと思います。

夫が病気でさえなければ、という気持ちが強かったですね。

(病人でないパートナーの心変わりもかなりつらいと、後にわかるようになりましたが)。

最初は何とか快方に向かう方法があればと勉強しましたが、叶わず、年を経るごとに躁(そう)状態と鬱(うつ)状態の振れ幅も大きくなりました。

事例を話すと笑えるものもありますが、「寅さん」と同じで聞いている分には良くても同居はまっぴらというタイプです(莫大な借金は笑えません)。

方々に相談しまくったり、家庭裁判所にも行ったり大学に編入したりで私に知恵がついて度胸が据わると、私は夫の優越性を満足させる対象ではなくなったのでしょう。

私の不在時に子どもたちを攻撃するようになったのが切なかったです。

夫の不労で私が勤めに出る、その間に非力な子どもが理不尽で過剰な罵りを受けるという わかり切った悪循環です。

これまでの私の職業といえば最初の証券会社を親の看病で辞めてから小・中学校教員、塾、秘書、損保、医療、障害者団体、保険、結婚相談所、メンタル不調者の復職支援など、引っ越しもあり、いつも家族の事情で変えてきました。

条件ばかりで選んできましたが、それなりに職場の人にはいつも恵まれていました。

ただ、履歴書的には「仕事が続かない人」としか映らないかもしれませんね。

世間体はとっくに切り離していましたが、毎日毎日ずっとどうしたらよいのか考えながら日常(家事や子どものケア)に追われ、息子が野球部だったので、ときには夜中の洗い物もあり、実家の母の看病・介護のために新潟日帰り往復も重ね、日中は勤務もありですっかり疲弊してしまったと思います。

ときどき倒れましたが私がやらなければ家が回らないのでやるしかなかったのですね。

こうやって思い返すことができることや、知りたい人がいて、そのために書き起こすことなど、かつては想像もできなかったことです。

私にはもともと備わっていた力と、題名のように鍛錬とでもいうような生活のおかげで身についた力とがあります。

情報や知識は取りに行けば手に入る時代ですが、そのあとの思考や判断、行動することで人生はいかようにも変わります。

私は学閥エリートや単なる資格マニアでもないため、そこにあぐらをかくわけにもいかず、残りの人生を学んで挑戦するしかないといったところです。

これこそが皆様とこれからのより良い人生に活かせる力だと信じているのです。

もちろん子どもたちも受けた影響は大きかったですが、良くも悪くもです。

彼らの将来がうまくいかないときでも、それは父親のせいではありません。

え!?いいことなんてあるの?意味がわからない!

悪影響を与えた親なのに責任がないって、どういうこと!

と感じた方、チャンスです。

なぜそうなの?と今まで知らなかったこと(知識、考え方、世界など)を知り、思考と行動を繰り返すことで、人の将来は変わるのです。