私の幼少期は落ち着いたものでした。
両親の仲は良いとはいえませんでしたが、時代背景や父が昭和一桁生まれの典型的な人であったことを考えれば、両親に愛情深く育ててもらったと思います。
今にして思えば男尊女卑ですが、女の子に浪人させてまで大学にはやらない、という父の考えに逆らいもせず、短大を卒業しました。
実家周辺では、進学でほとんどの人が一人暮らしデビューとなります。
(現在20年以上都心生活ですが、地方から子どもの学費と生活費を負担する保護者の方や、奨学金で自身の学費を負担して頑張っている学生の方には頭が下がります。費用、学習・就職環境、大学の事情など、価値観は変化しています。皆様と考えることを共有する大事なテーマになると思います。話を戻して…)
私が社会人2年目で母が倒れ、看病のために実家に呼び戻されました。
時代はバブルが弾けたばかり。
若い私は大金を失ったわけでもないため、社会人を金融機関のコンサルタントレディとしてスタートしたばかりで、公私を楽しんでいました。
当時は兄も父も働いているのに、当然のように私が介護離職させられたことに納得がいかず、母の面前以外では泣いてばかりいました。
女々しいものではなく、憮然とした無表情に涙だけが流れるような。
ちょうど女子大生という言葉が淫靡(いんび)な響きを含んでブームな頃。バブル崩壊後でしたが、同世代はまだ学生をしていたり、仕事に旅行にと新生活を謳歌していたりする人がほとんどでした。
同年代の中では異色で、明らかに頭の中がひと世代老け込んでいると自覚していました。
友人の中には 勝手に私に対して申し訳なさを感じ、バカンス・レジャー報告を避けた人もいたようです。
私は他人の幸せを恨む性格ではないのですが。^^
今では、介護離職に関わる社会問題がクローズアップされていますが、当時はさほどでもありませんでした。
今にして思えば人より早く経験しただけのこと。
その経験が今、どなたかの役に立つのであれば、親から与えられた貴重な経験だったと感謝することができます。
当時は他人をうらやましいとは思いませんでしたが、私は別世界にいる気分で、この頃から病人、病院生活、死にまつわる情報に詳しくなっていきます。
ところで、看病生活という響きでどのような心情を想像されるでしょうか?
自分の生活が一変し泣きもしましたが、病室では笑えることが日々起こります。
とくに大部屋では。母も私も笑いのポイントを逃さず拾うタチなのです。
そして母の看病での病院生活が7ヶ月経った頃、今度は父が末期がんとわかりました。
父はまだ現役だったので職場で葬儀委員会が立ち上がり、本人が病床で生きながら身内でない人たちが葬儀の計画を進めているという妙な実感をしながらの看病でした。
同じ病院の2階に父親と、5階に母親のダブル看病をし、そのひと月後に父は亡くなりました。
術後30kgほどになった母の喪服姿があまりに小さくて痛々しかったのを覚えています(この後、母は入退院を繰り返しながら80歳まで永らえます)。
父のわずかな看病生活でも、濃厚な人間模様を見ることになりました。
現役で役所に個室があるということで、父の病室には体裁とか対面、世間体で次々と見舞いに人がやってきては、言わなくていいことを言って帰るのです。
大変なストレスではありましたが言動の背景や人の真意の現れ方などが印象に残りました。
年齢や役職、性別などに人の(あえて言えば)優劣は支配されないことが臨床の場ではよくわかります。
その後、なぜか私は年齢の割には人より多くの葬式を経験しました。
嫁ぎ先、友人など、そこに至るさまざまな人間模様を見聞きすることになります。
病床の父が、痛みに耐えながら「生きるということは、辛いものだな」と言った意味をときどき思い返します。
当時は生きることをやめても逃れたいほどの痛みなのだろう、と単純に解釈して切なさを感じていました。
「痛い」「辛い」とは、生きるのをやめたいくらいのこと、そういうときにしか使ってはいけない言葉なのだろうな、という誤った刷り込みが入ったのかもしれません。
この頃の私は昭和一桁生まれの父の元で影響を強く受けていました。昭和一桁生まれといって、通じる方が読んでくださっているかどうかわかりませんが。